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 ポンチャン.com   
  

命が延びる食生活 第五章

鹿屋市の玄蕎麦
   


@幼少の頃の回顧

ここは鹿児島県鹿屋市です。高隈山標高1000メートル

の山岳群を見上げる九州南東部の大隈半島の
中央部に

位置する鹿屋市は温暖な気候と豊かな自然に恵まれて

いま
す。特産物はサツマイモ、落花生、黒豚、焼酎、お酢

やその他色々とあります。その中でも特に私は地元のそば

が大好きです。
鹿屋市のじげん蕎麦でないと体が喜ばない

ので困っております。
両親が心を込めて打ってくれていたあの懐かしいそばを私が大好物で

あると言うのは、身内、親類、姉妹はもちろん仲間
たちも知っております。

実はお蕎麦を私のように大好きな人間は家族には他にいませんでした。

父は媒酌のときは地元の焼酎なんですけど、一杯のかけ蕎麦にはお酒を口にしておりま

した。

私は遊びから帰ってくるとその元気な一声がなんと物騒ぎのようになって、

「お蕎麦ーそば食べたいー」と言って、いつも両親の体にもたれて催促しておりました。

これが社会に出るまで続いていました。

先祖にきっと蕎麦好きがいたのだろと、この子は何でも不思議な子だと母はよく言いまし

た。

ある日、父は200本ぐらいある蜜柑園の間に畳二畳ぐらいの畑を私にくれて、仕切りを

してくれました。私はそこに蕎麦を植えたり野草を摘んできては植えたりしておりましたら

近所のおばさんが、

「これも奇麗じゃんで植えてあげる。」といいながら植えてくれました。

学校から帰って私の畑に走って行きましたら、何にか昨日と様子が違うのです。

父が肥料をやってくれていて私がこれまで見たこともない花が植えてありました。

私は喜んだらいつも飛び上がって皆に知らせに行く癖がありいつも走りだしておりました。


真夏になりますとあたり一面に白い花を咲かせた蕎麦畑にどこから飛んで来たのか無数

の蜂が蜜を求めてブンブンといいながら飛び回っていました。

私は蜂とだけは仲良く出来ませんでしたが父は余暇を見ては美味しい蜂蜜を取っ

てきては大瓶に何本も入れて、まるでコレクションのように飾ってはそれを来客した人に手

渡しで上げておりました。

現在は本物の純粋の蜂蜜や天然鰻は大変高級食材です。

あの頃父はまだ夜が明けないうちから連れと天然鰻を取りに行き、もううんざりするぐら

い取ってきて、私は目の前にあるバケツいっぱいの生々しい鰻を見ては、いつも逃げて家

に帰るのがいやになった時期もありました。いまでもあの頃のことを思い出すと、懐かしくなっ

きます。

この肉厚で身もしまって脂も良くのっていると言う鰻の、炭焼きしたものやおすましあり

と、それに薩摩地鶏や黒豚もありまして今の時代には手が届かないような貴重な食べ物ば

かりありました。そしてトマト なす ずっしり重いかぼちゃ きゅうり  枝豆 ししとう しそ ゴ

ヤ(にがうり にがごぃ)すいか 甘いうり そして果物など豊富でした。

それに人様が眺めるような大きい木(シナモンの木)は樹齢相当な年月が過ぎているよな大

木も
ありました。



今も昔も鹿屋市の特産物
   
サツマイモの収穫。

この時期は子供たちは邪魔ですから、おとなしく勉強をするようにと父は勉強部屋を作

ってくれて、それに参考書も買ってくれていましたが、私はそこで昼ねをしておりました。

大型トラックが何台もやってきてサツマイモが澱粉工場に運ばれていきます。

そして沢山の日雇いの人を頼んでタバコ乾燥場も手広くしておりお金も沢山ありました

ので、高級物を好む母は余暇を見ては着物を着て最高品の化粧品で薄化粧して町

の親戚の医者の家に私たちを連れて良く行きました。

その頃お金があっても他に買う品がない時代だと母はよくつぶやいておりました。

私たちの先祖はお爺さんから鹿屋市にやってきたそうです。

町には私たちのお爺さんが住んでおりました。

お洒落なお爺さんは、孫たちのためにときどき遠くまで出かけては都会的な洋服を仕入

れてきました。


父は薩摩人として生まれておりますが、あまり薩摩の体質とは少しかけ離れていた人で

した。父は人間としての大きな心の器がありましたから、夜になると家には次から次へと

来客があり土地のことや子供たちのことなを相談する人が絶えませんでした。

人間はみんな平等だと言っていた父親

心の温もりを態度で示した父親

男の中の男で若いころは 市とか群で相撲が一番強い人だったそうです。

私がもっとも尊敬する人です。

父はやがて町の所長や多方面の所長を約束された、農林省の管轄に毎日お勤めをし

ておりますから、それにお付き合いも町の有志の方がたとでしたから、夜遅く帰って来る事

が多々ありました。それに退職したら皆のための推薦などもありました






A収穫の季節になると帰ってくるお茶目な娘

そんな平和の中、待ちに待った黒い実をつけたら蕎麦の収穫です。

その日は又沢山の人たちがお手伝いにに来ていました。

父の強引さでお嫁に来た母は何時までも農業に慣れないながらも、一生懸命に働いて

いた。

私が幼少の頃、あっち行きこっち来たりと落ち着かない私の様子に

「もうすぐ美味しい蕎麦が出てくるので木の陰で待っておけばいい、女の子は手を汚した

らいかんがー、いいところにお嫁に行かないと苦労するから」といいながら、頭にほっ被りし

ていた手ぬぐいを取っては拭いてくれたりしていた。

そしてやがてお茶目な娘が成人になりました。 
 
私が都会に就職した20代前後。

毎年夏か秋のお蕎麦の季節になると、必ず帰省する我が娘のために、近所のおばさん

たちもやってきては一家総出で蕎麦打ちが始まります。


私が帰ってくる時間を見合わせたかのように、控えめな母は私の顔を見るなり打ちたての

瑞々しいかけ蕎麦がお膳で運ばれてきました。

高いハイヒールを履いて腰まである長い黒髪を払いのけながら、夢中で新蕎麦を口に

運ぶ私の様子に皆大笑いです。

この元気が出る100%のお蕎麦は良質な打ち粉をすることによって、大変美味しいそば

切りが出来ます。

混ざり気のないその土地の貴重な健康食なんです。
 
このお蕎麦は場所によっては80日内で収穫出来るそうです。

寒冷地や荒畑でもそして痩せた土地でも出来る、このお蕎麦100kのかけそばが出来

る前に、冷たい水で洗ったお蕎麦が大きなザルに入って高い台の上に載せてあった。

私がちょっとつまみ食いしてみると中にコロコロとした塊が入っていました。

それが口の中でもうなんとも言えない食感で、病みつきになるのは間違いない味です。

そして父はザル蕎麦用の平皿を竹で編んでいた。

そして今度は熱湯で溶いて固めた蕎麦掻きも好きになってきました。

「つなぎには山芋を入れるのよ」と父は言っていたのが今も小耳から離れません。。

「蕎麦の後は大根おろしですー」と言って母は持って来た。

自然を丸かじりした土地で太陽に育まれて出来た野菜たち、それは私の味覚となって今

なお健康を約束したかのように思えてなりません。

体に良い鉄分たっぷり、そしてカロリーが少ないのでダイエットによし、またルチンやコリンが

いっぱい含まれた新そば100kが郷里から毎年送ってきますので。今も毎日のように大さ

じ一杯を練って味噌汁やおじやなどに入れております。

ところで蕎麦といっても打つ蕎麦だけではなく

●蕎麦掻き
まずどんぶりを暖めてその中に蕎麦粉を入れて、暑いお湯を少しづつ粉にかけながら
すばやくかき混ぜる。
そのときにどんぶりはやや斜めに倒してかき混ぜると、美味しいかきそばの出来上がり。
後は醤油をつけて食べます。

●蕎麦湯
溶け出した濃い汁ですが、この蕎麦湯の中に混ざっている打ち粉は蕎麦の胚芽の所
ですから栄養分が豊富です。

●蕎麦汁
蕎麦粉を水で堅くといて それを野菜たっぷりのなべの中に小さい団子にして入れる。
味付けはお味噌か薄口醤油で。

●天ぷら
冠婚葬祭に必ず出す郷里の一品です。
そば粉の中にあくぬきしたごぼうと 人参 サツマイモ 玉葱も細永く切り、塩加減に
注意して砂糖を加える。それを菜種油で揚げる。
           

    
                   秋蕎麦

               香に風味色と申し分なし
               早霜前に刈り取る絶品の
               秋蕎麦を一口音許したまへ
               声かと間違え振向く
               あぁー秋蕎麦を食べたい
               恋人とも別れ帰省急ぐ
               20才の私


             ふるさとはいつの日も原石で待ってくれる 





命の延びる食生活 目次

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    エッセイ集目次

1 私の日常生活

2、薩摩おごじょ

3、国内の旅


4、海外の旅

5、自転車日本縦断の旅

6、普賢岳の千羽鶴

7、阪神淡路大震災

8、私の服飾観


9、命が延びる食生活

10、思い出は霧に包まれて

11、世界で一番大好きな


12、高隈山 戦争


13、松竹梅 一本松