1月3日お正月
私はお正月に突然鹿児島市の中心地にある
我家に帰った。
そしてすぐ生まれ故郷へ帰るためにお土産を
両手に抱え、鴨池:垂水フェリーターミナルに
着いた。この日もまた海から吹き付ける海風
が幾度となく頬を刺すようだった。
今度こそ桜島の勇姿を見たくって、寒い中
カメラを握り締めて船上に居座った
のは良かったけど今なお活発な火山活動
が続いていて、その噴煙が多くなると
季節によってこの冬は私のふるさと大隈
半島へと向きを変えていた。
船の中はお客さんが少なく静かな語らいがかすかに私の耳元に届くだけだった。
お姉さんに逢いたいーーこんどこそゆっくりと語らう時だ。
薩摩おごじょの気質の見本みたいなあっさりした私のお姉さん、人生の大半を
去年他界したご主人のために身を削るかのようにいたり尽くしたお姉さん
早く逢いたいなぁーー
途中携帯からお電話をかけてみた。
「今回はポンチャンとずっと一緒にいるよ」とこれまで一度も聞いたことがない優し
い言葉が返ってきた。この優しい言葉に感動屋の私はじんときて胸が熱くなって
きた。
お姉さんはこれまで私に優しい言葉をかけることも出来ないぐらいに、病弱の旦
那さんのために自分の人生全てを捧げたのです。
私は東京で涙などそんなに出したことがないのに、今日は何故か涙がいっぱい
出てサングラスで隠すのが精一杯でした。そして鹿屋行きの長距離バスへと急
いだ。バスから見える錦江湾の海の青さが眩しかった。
今は亡き優しかった両親の面影と、両親想いのお姉さんの一人身になった侘
しさと哀しさを察するあまり私は心がいたたまれなくなってきました。
ここ垂水から見上げる桜島そして垂水から見る錦江湾、後ろに高隈山が聳え
立ち、錦江湾の向こうには佐多岬灯台がありと、私はこの道を十代の後半から
今は亡き両親の待つ故郷へと幾度となくバスに揺られて通った、ここだけは変わ
らぬ懐かしい道でもある。
今は亡きお兄さんのお嫁さんが今回心を込めて作って待っててくれた、おせち料
理は亡き母のふるさとの味そのものだった。
みんな久しぶりの再会である。賑やかだった。
「ねぇお姉さん鹿児島に行かない?
鹿児島の家には雑誌に出ているような最新のお風呂もあるし、私とお風呂に
入って長年のご苦労を流しましょうね そして一緒の部屋で寝ましょう」と問いか
けたら2つ返事が返って来た。
闇夜の船上から見る鹿児島市のネオンサインは、生まれて初めての姉妹の船
旅を見守ってくれているかのように光輝いていた。
お姉さんは遠くを見ながら、「お母さんがねポンチャンの事を社会に揉まれて、
努力努力してきた子だといっも口癖だったよ。」と母の想いを振り返りながらしん
みりとして話してくれた。そしてお姉さんはまだ夢から覚めやらぬかのように一呼
吸して、「実は去年私が肺炎で入院した日に、運悪く主人の容態も悪くなり
別々の病院で入院したのよ、こんなにも人生で哀しく惨めな日はなかった」と力
を込めて話してくれた。
長年連れ添った二人の絆の深さと、そして身を削るかのようにして長年尽くした
ご主人との人生の別れ際を察するかのように、お姉さんは病室で自分の体より
もご主人のことを思いながら側にいてやれない苦しみ、どんなに心苦しかったか
想像する度に胸が締め付けられる思いです。
このときもうお姉さんには船のエンジンの音すら聞こえないかのように、久しぶりに
再会した血の繋がった妹に話すことが少しでも心が安らいだとしたら私はとても
うれしいです。
そして鹿児島の私の家に着いた。
お姉さんには長年のご苦労を少しでも癒して上げようと、私の被る布団までか
けてあげた。すっかり居心地がよさそうな寝息が途切れ途切れに聞こえてきた。
私は薄い布団に落ちて身を丸めていた。
一緒の部屋で休む喜びそして幼少の頃と同じく一緒の浴槽に入った二重の喜
び、その頃のなごやかな楽しい時間を過ごした家族団欒の日々や、時代背景
が走馬灯のように浮かんでは消え、私は夢の世界へと眠りに誘われて行った。
お姉さんは生まれたときから片方の足が弱かったので、両親や近隣の人たちも
心配してくれていた。高校のときに同級生が足の事で暴言を吐いたと、昨日初
めてそのことを聞いて私はショックを受けた。
たとへその時にどんな理由があったとしても、お互いの誤解を解くこともなく青春
の最中にいる若い娘がどんなに傷ついたか計り知れない。あの時から50年が
過ぎ去ったと言うのに、自分の大事な体の一部の弱点を侮辱された悲しみ憎
しみは、人間の頭脳の片隅に永遠に刻まれているのかと思いました。又相手も
人から傷付けられてそのような性格になったとしたら、間違った選択ではあります
がかわいそうな人と思います。
でも今頃大人になり心で誤っているかもしれませんね。そう願いたいと思います。
世の中にはもっと苦しみ嘆きどうする事もできず、立ち往生している大勢の人た
ちがいることをお姉さんと語らい、今こうして元気に生かされている事に感謝した
いと思いました。
私は18歳からふるさとを離れましたので、お姉さんとゆっくり腰を下ろして悲しみ
や喜びを分かち合うことが何十年もの間なかった。
早朝お姉さんの寝顔を除いていたら突然頭の中でスーッと閃きが起こった。
「お姉さんおねえさんーー今日から足まっすぐ歩けるよ。今私閃いたのよ。最近
頻繁に閃きが起こるのよ」
お姉さんは布団を捲り上げて今なんと言った?と驚いた。
「片方の靴の中にね二枚か三枚暖かい防寒中敷を入れるのよ、そしたら両足
がちゃんと揃うと思うのよ。そしたら足の高さが同じになるからもう大丈夫よ、せっ
かくだから通気性と抗菌防臭の中敷を買いに行きましょうね。」と言ってお姉さ
んを目覚めさせた。
私が力を込めて喋るとお姉さんは丸い目を動かさないで、もうこの上ない最高
の顔を見せてくれた。子供のころから何十年もの歳月足のことで一人で悩んで
きたと言うお姉さん、
その時のお姉さんの顔は両足の長さが揃う喜びに満ち溢れていた。
早速私たちは町に出かけた。
片方の靴の中に入れるボアの中敷を挟みで調節して二枚入れてあげた。お姉
さんはちょっと動揺したかのようにして歩き出した。
そして興奮気味になって、
「どうどうを私の足が悪いと言うのが人に分からない?」と私の返事を急いでい
た。
私も興奮気味になって、
「分からないわよ いいじゃない いいねー 妹早く来ないかねー もっと歩いて
見せてくれる。もっと早く気付いたら良かったね。ちょっと試しに中敷を三枚入れて
みましょうか」
と私は尋ねて見た。繁華街を歩くお姉さんの後ろ姿はもう一般の人と変わらな
かった。段差もなくなっていた。そこに霧島市からひょっこりと妹がやって来た。
妹は私が上げたお洒落服に身を包み微笑んだ顔でやって来た。
妹は二人の真剣なまなざしを棒立ちになって黙って見入っていた。
お別れの時間が来た。
お姉さんは私の前に立ち本当ににありがとうねと頭を軽く下げた。
「私こそありがとうね楽しかったね。今度は東京においで待っているからね。お父
さんお母さんが生きていたら今日はすっごく喜んでくれた日だったかもね。
お姉さん私の頭脳に長ーくお眠りしていた海より深きものが、又いつの日か何
処かで閃きを起こして、人助けができたらいいね」と言って私は二人を笑わせた。
「ポンチャン頼りにしているよ」と、お姉さんが言うと
「私も頼りにしていますよー。」と幼い頃の可愛い妹の姿が見え隠れしていた。
バスに乗りかけたお姉さんに私は走り寄って、
「お姉さん私又閃いたのよ。
もしかしたら片方だけ靴の中を少し高くしてもらう、オーダーメイドも出来るかも
ね」と言って別れの言葉にした。
お姉さんはバスの後方からちぎれるかのように手をふる姿が、どんどん小さくなっ
ていくそのとき、私も腕が重くなってきたけどちぎれるように手を振り又の再会を
喜んだ。
妹はその姿を写真に収めた。
これからの自分の人生に輝いて生きて欲しいと私はそれを強く願っています。
お姉さんもう忘れ物ありませんか
お姉さんは私が先に閃いた中敷が忘れ物でしたね。
私の忘れ物は中敷を早く思い出さなかったことを
忘れ物にしましょうね。