このようにして遂に九州福岡県に着いた。折尾を通る頃には、夕暮れが迫っていた。
私はいつの間にか岡垣バイバスに入っていた。焦った私は引き返して犬の散歩をして
いる通行人に道を尋ねたら、相当先まで行かないと宿がないと言われた。
明日の取材の約束が頭から離れなかったので前進することにした。
岡垣は静かな田舎町だった。本当に旅館もビジネスホテルも見あたらない。私は県道沿
いの民家をノックした。
そしたら髪ボサボサの60歳の初老の男性が、
「家内は仕事に行っているので、旅館をさがしてあげる。」
と言った。
「奥さんが仕事?もうこんなに日が暮れているのに・・・。」
と、嫌な予感がした。車に乗ったその人は、大通りから突然畦道へ下った。
外はもう暗い。トラックや家路を急ぐ車が通るだけの田舎である。
私は携帯電話を振り回しながら車に向かって叫んだ!
「なんでおたく畑の中に入るのですか。ちゃんと大通りがあるでしょう?私の家の者が
おたくの住所と、名前を尋ねていますよ」
驚いたのかバックしてきた。すぐ近くの道路沿いに交番があったので、その男性が曲
がったスキを見て、私は交番に駆け込んだ。お巡りさんに宿をあちこち探してもらった
のだが、結局、何処にもないことが分かった。
「横のドライブインで過ごしますからいいですよ。」
と、言っていたその時に運送会社の奥さんが来て、運送会社の事務所の横でお休み
くださいと言われた。少し横になったけどここはやはり男性の多い会社だ。そこを引き
上げて私はドライブインの裏の厨房の椅子で体を休めた。
朝、身支度をしていると、私の噂を聞いたと言って見知らぬ家族がやってきた。隣にある
運送会社に勤めている方の家族だった。家に招かれて美味しい馳走を頂く事になった。
奥さんの実家は私の生まれ故郷にあった。人間の縁とは不思議なものだと思った。
名残惜しい別れの後、私は博多へと急いだ。
その頃から風邪をこじらせてしまい熱が出てきた。汗だくで皮膚炎になった。体中が痒い。
今回の旅は今までの人生の整理と思っていたので、何の後悔も感じなかった。
私は翌朝取材の約束があったので、出来るだけテレビ局に近い場所に宿をとった。
翌朝テレビ局の前に着くと、取材のスタッフや大型カメラが私を待っていてインタビューが
始まった。テレビの生番組の撮影を終えた私は、その後国道を走り出した。今度はラジオ
の電話インタビューをあちこちで受けた。電波の力は凄いものである。
私はいたるところで声をかけられて、前に進めないぐらいの声援を送られた。嬉しさが渦が
廻るように込み上げてきた。
31日目の夜をお茶で有名な八女市で迎えた。街のあちこちで八女茶の宣伝が目を引
いた。翌朝八女市から長い山道が続いた。小栗峠にさしかかろうとするところで朝食を
済ませた。しかし風邪のせいか食欲もなく、すっかりやつれた自分の顔を鏡の中で見た。
食堂のおばさんはとても優しくしてくれた。奥からカメラを持ってきて一緒に写真を撮った。
そして坂を上る私にいつまでも手を振ってくれた。
小栗峠を越えると、そこはもう熊本県だった。長く続く田園風景を通り抜け、熊本市内に
入った。この熊本市内も通り過ぎ宇都に入ると、まるで歩道を1人で貸し切っているかの
ように自転車に乗っている人と全く会わなかった。
32日目の夜は八代市に到着した。ここでもなかなか宿が見つからなかった。
そのうちある一軒の旅館で、私の旅装姿と自転車を見たおかみさんが、
「満員ですけど何とかしましょう。」
と親切に言ってくれた。
その晩は宿の皆と打ち解けて話が弾んだ。私は今までの体験をユーモアを交りに話すと
皆大笑いしながら聞いてくれた。
次は鹿児島県だ。べタルを踏む足も自然と軽やかになってきた。それと心も喜びすぎ
ている。
次は、鹿児島県に入る
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