「私はりんごを木の枝からちぎって食べた事がないので、一度でいいから体験したい。」
と、弾んだ声でお願いしてみた。
おばさんはにっこり笑って、
「どうぞ、どうぞ。」
と、言ったかと思うとリヤカーの向きをくるりと変えて、今来た坂を再び上り始めた。
やがて道端の農園の入り口を鍵で開けて、私を招き入れた。
私は始めてりんご園に入ったために、童心に戻りワクワクして歌いたくなった。
そこでかぶりついたリンゴの美味しかったこと!それは中が蜜で溢れているようであった。
おばさんと倉庫に腰掛けておしゃべりをしていたら、ある芸能人の話になって、
「終戦中、あの人はそこの先に疎開されていたのですよ。」
と言う話を聞いた。
「私も一度はあの人の舞台をみたいので、それじゃりんごをお送りしましょう。」
と言う事になり、おばさんのりんご園からその人にりんごを送ることにしました。
別れを告げた私の背中におばさんは、
「あなたの心があの人に通じてきっと嬉しいお返事が来ますよ。奇麗なりんご玉をお送りい
たしますからご安心くださいね。ダンプカーが多いのでお気をつけてくださいね。」
と、大きな声で言ってくださいました。
そこは青森県三之群五戸町でした。
私は言うに言われぬ淋しさに襲われながら急な坂を駆け上がって行った。
急な坂道を上がり下りしていると派出所が見えてきた。
おまわりさんに次の宿までの道を尋ねて猛スピードで金田一温泉へと向かった。
温泉近くに着く頃には山間の集落はもうどっぷりと日が暮れていた。
国道から村へ入り込んだのだがなかなか目的地が見つけられず途方にくれた。
行き当たりバッタリである家の玄関のベルを押していたらちょうどご主人が自動車で
帰ってきた。私が金田一温泉を尋ねたら、
「そこの山を少し超えるとすくですよ。」
と、言われた。
私は深呼吸をして、真っ暗い山の中に入り一気に下った。恐かった!私にとって
はこの旅最初の恐怖であった。やっと到達した温泉は静かな農村の一角にあった。
たっぷりと温泉に浸かり、地元の人たちと世間話を楽しんだ。そこの人たちにとって
は突然自転車を押してやってきた、まさしく飛び込み客であったことでしょう。
翌日早朝、温泉宿を後にした私が霧のかかっている田園のあぜ道を急いでいると、登校
中のこどもたちが私の後ろから走って来てくれた。私は大きく手を振った。子供たちの声援
は本当に元気が出てくる。
国道へ入る前に盛岡までの道を尋ねた。
「岩手県岩手郡まではほとんど山。それに中山峠が長いですから気をつけてくださ
いよ。」
と、言われた通り本当に山だけの国道だった。
途中、自転車の車輪が外れてあわてて修理した。車輪をなおしたのも生まれて始めての
経験だった。なぜこんなにうまくいったのだろうかーーと独り言を言う。
上がり坂の手前で薬局の奥さんがドリンクなどを袋いっぱい下さった。
優しい奥さんとの別れも、またひとつの思い出となった。
時にお金を寄付したいと言われたが、私の目的は沢山の人に背中のプラカードを見て
もらって難民の子供たちへの問題に目を向けてもらいたいということだった。
そのため直接寄付をもらうことは決して許されなかった。
またある時にはガソリンスタンドで自転車に丁寧に油をさしてもらった。あの叔父さんの
後ろ姿も忘れられない。
盛岡まで後10キロぐらいの地点で日が暮れた。せまい歩道をゆっくりと走り抜けた。
ところがこの先宿がないと聞いたために再び引き返して、国道沿いの民宿に宿泊する
事になった。宿の若旦那は隣の接骨院も経営していた。
「先生、私鹿児島からずっとぎっくり腰でしたが少し良くなってきたような気がします。」
先生は少しびっくりした様子で、
「あなたは自転車に乗って腹筋運動をやっているのと同じですから、かならず治りますよ」
と言った。
ここでもサクサクのもぎたてのりんごを口にすることが出来た。
翌朝、庭先まで霧がかった民宿を発ち、岩手県の玉山村を後にして一路盛岡へ
と急いだ。
丁度盛岡市の中心に差し掛かったとき、見知らぬ奥さんにテレビ局の場所を尋ねたら
一緒に行きましょうと言われた。そしてトントン拍子に局で取材を受けることになった。
盛岡市街から離れたところでもラジオの生番組に出ることになり、国道沿いの
タバコ屋から局に電話をかけた。
取材が終った頃、下校中の子供たちが追っかけてきたり、また車のクラクションが頻繁
に鳴り響き、励ましの言葉をかける人たちに随分と勇気づけられた。
電波の力に圧倒される出来事であった。
やがて歌で有名な北上川の橋を渡り終えてから、民宿さがしに一苦労をした。
次は、初めての取材
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